パリでのテロのこと

パリのテロ事件。

弔意を示し、半旗を掲げたいと思う一方で、一ヶ月前にアンカラで起きたテロには無関心で、アンカラに住む友人にメッセージを送って安否確認しただけで終わりにしていた自分の無自覚な無関心さに気づく。パリやベイルートでのテロ、シリア、イラクでの空爆とときを同じくして、韓国でデモの弾圧があり、辺野古で基地建設反対集会がある。僕は、マレーシアで筋肉痛で起床し、朝ごはん何食べようかなと考える。ムスリムの国にいても、起きたことが遠い国のことのように思える。

テロに屈しない、断固として戦うと叫ぶのは簡単だが、テロという手段を選ばざるを得なかった人々の状況の想像をなしに一方的に強い嫌悪を叫べば叫ぶほど解決には遠くなるのだろう。人は見たいものを、見たいときに、見たいようにしか見ない。パリではsolidarité = 連帯という言葉が使われているらしい。痛みを被ったときにひとつになろうとする気持ちは大切だ。しかし、連帯という言葉のもとに同じ思想の人々が固まり、違いを受け入れることが疎かになっては本末転倒だと思う。「連帯」は連なって異分子を排除することではなく、「共生」につながるものであってほしい。

自分に何ができるだろう?と考える。困っている人に手を差し伸べたい、という気持ちの発露は人それぞれの形があるだろう。何もやらなくたっていいと思う。自分はまず、違いを受け入れる知識と度量を持ちたいと思う。

14. November 2015 by admin
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