遊動の時代
お盆休みで、約1週間イタリアに行ってきた。
備忘録的記事を書いたので、末尾にリンクを貼っておく。
やはり旅はいいなと思った。
多動症気味でひとつのところにじっとしていられないし、リゾートとかいっても2日で飽きてしまうのだけど。
ミラノ・フィレンツェ・トスカーナ・タオルミーナ。
初めてのイタリアだったが、目的地もホテル選びも、妻のここ行きたい&イタリア慣れした友人のおすすめに従って、ウェブサイトすらほとんど見ることせずに決めていった。着いてから、ここはどこなの?という感じだったが、とても楽しかった。
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インターネットとスマホは、旅を簡単にした。
はじめての場所でもスマホがあればどうにかなるが、その反面、地球上から「知られざる風景」を消し去ってしまった。「絶景」「秘境」と呼ばれるものを、私たちは見る前から知っている。旅だと言いながら、ともすればスマホを片手に、ああこれだ画面と一緒だ、と単なる知識の追体験・確認作業だとも言える。
それよりも、カフェに集まってる人とか、履いてる靴とか、路地のかんじとか、年の取り方とか、飲み食いしてるものとかから、ここなら住める、住めない、とか思いを巡らせたほうが、きっと楽しい。
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話は変わるが、仕事が変わってから、製造業界隈なので工場との付き合いも多く、日本の地方にもたくさん出張するようになった。
そこでまず根っからの東京育ちのボンボンとして気づくのは、東京の人間は地方のことがまったくわかってない、ということである。地方営業所に東京一辺倒マインドの人員を配置しても失敗する。理由は話し方・食べ物・家族と仕事の価値観、共通の話題、色々あって一言では言えないが、この感覚は実際に暮らしてみないとわからない。地方に行く前から「まとめサイト見てきました」といわんばかりのステレオタイプはご法度である。
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旅をして思った。人口が減っても、人の移動が増えればいい。
原研哉さんは「遊動の時代」と言ったらしいが、移動を常態と考えるような生活感が自分は好きだと改めて思った。